2021年5月号 第423号
御教歌に学ぶ佛立信者のご信心と人生 <その一>
浄土に住める人とは
大かたは人目つつしむ
ばかりにて
冥の照覧思わざりけり
法華経、日蓮聖人の教えに基づく本門佛立宗のご信心をなさっている方の中にも「寂光浄土の彼方(かなた)から仏、菩薩方が御本尊を通して私たちの所作、振舞いやご奉公ぶりを見守っておられるのだ。」ということを心にとめないで、人目ばかりを気になさる方がおいでになるのは残念なことであるな、と詠まれたお歌です。
「冥」(めい)というのは「こちらからはよく見えない」という意味ですが、こちらからは見えないといっても、寂光浄土はけして暗い処ではありません。寂光は文字通り静寂な光に満ちた世界なのです。であるのにこちらのご信心の眼(まなこ)が煩悩によって覆い被されているために気付かないだけのことなのです。
この娑婆が
即寂光と見えわたるかな
(御教歌)
とお示しのように、ご信心の眼が澄まされてくると、私たちが暮す濁りに満ちたこの娑婆世界は清らかな寂光浄土とつながっていて、仏、菩薩方とも感応、交流させていただいていることに気付くことができるのです。
ではどうすれば「信心の眼」をひらくことができるのでしょうか。
一層心がけ励ませていただくことです。そうすると必ず現証の御利益を感得して「私は寂光におられる仏、菩薩方と共に生きているのだ。」ということを実感できるようになります。「冥の照覧」を実感できるようになるのです。
娑婆という処をかえず
名を変えて
浄土に住める人や誰なる
(御教歌)
娑婆という世界に暮しながら寂光浄土に住む人とはいったい誰なのであろうか、それは法華経、日蓮聖人の教えに従って冥の照覧を忘れず日々信行に励む方たちなのです。