2022年3月号 第433号
お互い、安座名字のご信者に
十七世紀のフランスの哲学者、パスカルがおよそ次のような言葉を残しています。関西弁に意訳してみましょう。
「人間は二種類の愚か者、アホがおりましてな。その一種類はなにかを学ぼうという意欲もなく日々を過してきた愚か者、アホですわ。
もう一種の愚か者、アホとは自分が学ぶべき事を学び尽くした結果、自分はまだまだ到らぬ人間だと謙虚さを備える人になった愚か者、アホ。
こういう人は本当の賢さを備えた智慧のある愚か者、アホですな。ややもすると人間はたいした教養も智慧も備えてないのに、いかにも物知り顔にふるまうようになって、偉そばるようになりますな。
同じ愚か者、アホなら賢そうなアホやなしに、アホそうな賢こになりたいものですな」
『妙講一座』の中に「安座名字の聖衆」という御文が出てまいります。
これは「素直、謙虚さを失わない、他の信心修行者のお手本となるような仏道修行者」という意味です。
そういう安座名字の聖衆こそが御本尊の体内、すなわち寂光に招かれるのだと説く御文が『妙講一座』の「勧請文」の結びの御文なのです。
開導日扇聖人は
よの人の
あほはさておきおのが身の
あほをしる人
かしこなりけり
と御教歌くださっています。
お互いに自身の愚かさ、到らなさを 自覚し、わきまえる素直で謙虚な賢さ を備えた「安座名字」の他のご信者の お手本になるような香風寺信徒になら せていただきましょう。