2022年4月号 第434号
人間は退職して初めて肩書きのありがたさがわかる
●人間は退職して初めて肩書きのありがたさがわかるといいます。
同時に、人間は退職して初めて肩書きを越えた世界に生きることができるのかもしれません。
人間は肩書きといういわば裃(かみしも)を着た人生から、それを脱いだ人生へと切り替るターニングポイントがあります。野球にせよ、相撲にせよ、プロのスポーツ選手というのは二十代、三十代でそうしたターニングポイントを迎えるわけですが、一般の会社勤めの人でも遅かれ早かれその時期がやってきます。それがどのような肩書きであれ、肩書きにいわば依存し、寄りかかった生き方をしてきた人ほど、その肩書きを手放さざるを得なくなったときのショック、落差からくる虚脱感は 大きいようです。
ですから、肩書きを着ているうちから、脱ぎ去った後の自分の生き方をイメージし、そのための心の準備をしておくことも大切な老後の備えの一つといえそうです。
そういう意味では、はじめから肩書きのない人は気が楽ですね。専業主婦として生きてきた女性の中に年をとるほど活気が出てくる人が多いのも、人生における急激なターニングポイントを経験しないですむからかもしれません。
「佛立信者」という肩書きだけは一生誇りを持って備えておきたいものです。
●人間は年とともに何事をするのもおっくうがるようになるものです。年とともに「おっくうがってはいけない」と自分自身に言い聞かせなくてはいけません。
人間、歩くこと、食べること、排泄すること、この三つはできれば死ぬまで自分でやれるようにしておきたいもの。でないと晩年が惨めです。
ご参詣、ご奉公を「おっくうがってはいけない」と常に自身に言い聞かせてください。
とし寄りてつとめ働き
出来ねども
後世(ごせ)の菩提(ぼだい)は
今ぞ時なる
(御教歌)
十七世紀のフランスの哲学者、パスカルがおよそ次のような言葉を残しています。関西弁に意訳してみましょう。
「人間は二種類の愚か者、アホがおりましてな。その一種類はなにかを学ぼうという意欲もなく日々を過してきた愚か者、アホですわ。
もう一種の愚か者、アホとは自分が学ぶべき事を学び尽くした結果、自分はまだまだ到らぬ人間だと謙虚さを備える人になった愚か者、アホ。
こういう人は本当の賢さを備えた智慧のある愚か者、アホですな。ややもすると人間はたいした教養も智慧も備えてないのに、いかにも物知り顔にふるまうようになって、偉そばるようになりますな。
同じ愚か者、アホなら賢そうなアホやなしに、アホそうな賢こになりたいものですな」
『妙講一座』の中に「安座名字の聖衆」という御文が出てまいります。
これは「素直、謙虚さを失わない、他の信心修行者のお手本となるような仏道修行者」という意味です。
そういう安座名字の聖衆こそが御本尊の体内、すなわち寂光に招かれるのだと説く御文が『妙講一座』の「勧請文」の結びの御文なのです。
開導日扇聖人は
よの人の
あほはさておきおのが身の
あほをしる人
かしこなりけり
と御教歌くださっています。
お互いに自身の愚かさ、到らなさを 自覚し、わきまえる素直で謙虚な賢さ を備えた「安座名字」の他のご信者の お手本になるような香風寺信徒になら せていただきましょう。