2024年9月号 第463号
栴檀と伊蘭
「香風寺」は法華経の序品(第一章)に説かれる御文「栴檀(せんだん)の香風、衆の心を悦可(えっか)す」から頂いた名称です。
栴檀はアジア各地の温暖な海辺の地に自生する香木で、高さ約八メートルほどに育つ木です。
栴檀の香木を吹き抜けてきた風に触れた人が心を和ませ穏やかな心地になるように、仏のご説法を聴聞した衆生もまた然りなのだというメッセージの込められた御文です。
香木である栴檀としばしば対比されるのが「伊蘭」(いらん)という灯台華(トウダイグサ)科の植物です。
この木は悪臭を発します。そこで仏教では栴檀は「菩提」(ぼだい)、すなわち清らかな悟りの境地、伊蘭は「煩悩」(ぼんのう)、すなわち我欲、我見の迷いの境地を表すものとして対比されたのです。
ところが日蓮聖人は栴檀と伊蘭の対比を次のように説いておられます。
「行者は必ず不実なりとも、智慧はおろかなりとも、身は不浄なりとも、戒徳は備えずとも、南無妙法蓮華経と申さば、必ず守護し給うべし。袋きたなしとて、金(こがね)を捨つる事なかれ、伊蘭をにくまば栴檀あるべからず。谷の池を不浄なりと嫌わば蓮(はちす)を取るべからず。行者を嫌い給わば誓(ちかい)を破り給いなん」
(『祈祷抄』
高祖日蓮大士御妙判集二―二七三)
右の御文を意訳してみましょう。
「法華経の教えに基づいてご信心させていただく者は、たとえすぐれた人格者でなくても、教養を身につけていなくても、必ずしも品行方正とはいえなくても、南無妙法蓮華経と御題目を口にお唱えする行者であるならば、御本尊内にますます仏、菩薩、諸天善神はご守護くださるのです。
たとえその身は不浄であるとしても、行者は心の内に菩薩という尊い宝を備えているのです。煩悩も転じて菩提となるのです。
伊蘭あっての栴檀なのです。蓮は濁った池の水の中にあって美しい花を咲かせるのです。
釈尊は罪障深き凡夫を救い導こうとなさったのですから、もし仏が凡夫を救いの対象から外されるようなことがあれば、それは仏が誓いを破られたことになってしまいます。それはありえないことなのです」
お互い、伊蘭の身でありながらも「栴檀の香風、衆の心を悦可す」る佛立信者にならせていただきましょう。
世の人は貪(とん)瞋(じん)
癡(ち)慢(まん)の
病いあり
われものがれぬながら信心
(御教歌